先月末のこと、石垣島タマヌオイルをお買い上げくださった方から、次のようなコメントをいただきました。
龍華(テリハボク)のオイルです。(龍華三会)
貴重なものですので、大切にお使いください。
龍華(テリハボク)? テリハボクは龍華とも呼ぶのかしら? 龍華三会って?
まったく聞き覚えがなかったので、ネット検索で調べてみると、
龍華樹とは
龍華樹はサンスクリット名でプンナーガと言い、高さ広さがそれぞれ四〇里あって、竜が百宝を吐くようだといわれる木。釈迦入滅後、弥勒菩薩がこの木の下で悟りを開き、三度法会を開いて衆生を救うとされる。(龍華三会)、想像上の樹との見方と、実在する樹との見方があり、実在する木はテリハボク(セイロンテツボクとする説もあるが、セイロンテツボクもテリハボク科)。
タマヌの木がポリネシアで「聖なる木」とされていることは知っていましたが、まさか仏教とも深い関わりのある木だったなんて! 教えてくださったお客様にお話を伺うと、お客様も龍華樹は想像上の木だと思っていらしたそうです。ところが、香川の総本山善通寺にトマトを送られたところ、弘法大師御誕生千二百五十年記念の「散華」(さんげ)が送られてきて、そこにテリハボクの木の実と花が描かれていた、とおっしゃるではありませんか。
「散華」とは
紙製の蓮の花びらを模したもので、法会のときに御仏を供養するため、堂内に撒いて散らすもの。法要が結願した後は、参拝者が拾って持ち帰る。法要の間に、諸仏が一枚一枚の散華に宿るため、参拝者はそこに宿っていただいた仏とともに帰ることになる。散華は仏壇や清浄な場所に祀ったり、額などに納めてお祀りする。さまざまな図様を描いて厳飾することには、場を清める意味がある。
その散華がこちら。たしかにタマヌ~テリハボクの葉と実、花の図柄です。
裏面には 龍華樹・テリハボク 龍華三会 と書かれています。
総本山善通寺に「弘法大師御誕生千二百五十年記念に寄せて」と心ばかりの寄進をさせていただいたところ、お礼として送ってくださった散華。全六枚セットで、すべて仏教に関わる植物の図柄でした。

なぜ、善通寺の「弘法大師御誕生千二百五十年記念大法会」の散華に、龍華樹(テリハボク)の絵が描かれているのでしょうか。善通寺に電話して尋ねると、「散華の解説書をお読みください」ということで、こちらを送ってくださいました。
これによると、テリハボクの幾重にも重なる艶のある葉が鱗を連想させ、その間にたわわに実る丸い実の様子から、龍が百宝を吐いている様に見えるため龍華樹と呼ばれるとか。そして、仏教では弥勒菩薩が悟りを開く際、この樹の下で法会を開くとされ、弘法大師の『御遺告』第十七条にも、この弥勒法会「龍華三会」のことにふれている、というのです。
「密教の法灯を護り継ぐには、龍華三会の説法を聞かなければならない。そのため、大師は寿命が尽きた後は兜率天に往生して、弥勒菩薩の元に侍り、五十六億七千万年後には弥勒とともに下生する」(弘法大師『御遺告』)
弥勒信仰が日本に渡ってきたのは仏教伝来とほぼ同時期。空海が若い頃は奈良法相宗の寺(法隆寺や興福寺)で弥勒信仰が盛んだったといいます。空海が24歳のとき著した仏道宣言の書『三教指帰(さんごうしき、さんごうしいき)』には、自らを仮託した仮名乞児の乞食僧の姿が「弥勒菩薩の兜率天に行く旅姿」であると書かれていたり、高野山で五穀を口にするのをやめ座禅三昧に入ってからは、ずっと弥勒菩薩の尊像の前に結跏趺坐していたとか。(エンサイクロメディア空海 空海の生涯 より)
密教の法灯を語り継ぐには…。ここで空海が唐の恵果阿闍梨から伝授され広めた「密教」について、おさらいしておくと、
密教とは
・密教が成立・体系化したのは、お釈迦様の入滅後、1000年以上たった7世紀。
・インド古来のバラモン教(のちのヒンドゥー教)の神秘主義的、庶民生活信仰的な要素を仏教にとりいれたのが密教。
・『大日経』と『金剛頂経』の二大経典があり、宇宙の真理を「曼荼羅」で表現。空海が唐から持ち帰ったのも、この段階の中期密教(後期密教は日本にはほとんど伝わらず、主にチベットで展開)。
・それまでの仏教「顕教」が「努力して仏になれ」と説くのに対し、「風のそよぎも、小川のせせらぎも、すべてが仏そのものであり、仏としての教えを説いている」と説く。
・この世界を構成するすべてのものが仏であるなら、私たち人間や動物も、本来的に仏である(「即身成仏」)とする。
空海が開いた真言宗は密教を基盤とする日本仏教の宗派のひとつと位置づけられていますが、本来の密教の歴史は古く、宇宙的スケールのアニミズム、汎神論に近いような匂いがします。密教も仏教のひとつですから、空海が弥勒菩薩を崇敬していても不思議はありません。
弥勒菩薩とは
ゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された修行者(菩薩)。ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる未来仏。
弥勒菩薩というと、多くの方がまずいちばんに思い浮かべるのは、切手にもなった広隆寺の美しき国宝・木造弥勒菩薩半跏像ではないでしょうか。

でも、ここ八重山では、弥勒「ミルク」様というと…

このように福耳で太鼓腹をされたお姿です。
これは、沖縄に伝えられた弥勒信仰が、ベトナムや中国大陸南部の弥勒信仰にルーツをもつためといわれます。唐の末期(12世紀末)では、実在した仏僧「布袋」が弥勒菩薩の化身だという伝聞が広まり、にこやかで太鼓腹をした布袋様の姿が弥勒として広まりました。
1791年、黒島首里大屋子職の大浜用倫氏が、首里王庁へ出張の際遭難し、安南国(今のベトナム)に漂着。そこで介抱された大浜氏は、遭遇した弥勒菩薩の行列に感銘を受け、弥勒の面と衣装を持ち帰り、「弥勒節」を作歌作曲。首里にとどまる大浜氏から一足早く八重山に戻る新城築登之に託された弥勒の面、衣装、歌の歌詞、祭典の次第などが村民に伝授されたのが始まりで、八重山では豊年祭や節祭、結願祭、波照間島のムシャーマなどでミルク様が現れる。(『八重山古典民謡歌詞集』より)
もともと沖縄には、まだ見ぬあの世の楽土「ニライカナイ」の信仰があり、神はそこから現れて五穀豊穣をもたらしてくれると信じられていました。このニライカナイの信仰と、未来に現れて衆生を救うとされる弥勒信仰が融合し、豊穣の神ミルクが、年に一度ニライカナイから五穀豊穣の種を摘んでやってくる、という沖縄のミルク信仰が生まれた、といわれています。( 沖縄の歴史文化深堀り研究 豊穣の神・ミルク神 より)
「しーやーぷー しーやーぷー みーみんめー みーみんめー
ひーじんとー ひーじんとー いーゆぬみー いーゆぬみー」
(しーやーぷーはほっぺた、みーみーんめーは耳、ひーじんとーは肘、いーゆぬみーは魚の目で、それぞれの場所をさわる仕草をする)
の囃子で知られる曲 『赤田首里殿内(あかたすんどぅんち)』も
大国(中国)の弥勒菩薩さまがわたしたちの島においでになって(下生されて)、お治めくださいますように。弥勒の世果報をもたらしますように
と歌います。
このように、弥勒信仰は古代インドからさまざまに変容しながら各地に伝播してゆきましたので、韓国やイドネシアなどにはまた違うお姿の弥勒菩薩像がおられ、人びとの信仰をあつめています。
そんな弥勒菩薩が悟りを開く際の木とされる龍華樹、テリハボク。その実から絞ったタマヌオイルには、さまざまな薬効のあることが学術研究であきらかにされています。テリハボクの実を百宝にたとえた古代インドの人びとも、その実からとれるオイルを薬として使っていたのでしょうか。
そしてもうひとつ…
余談になりますが、この春たまたま入った横浜中華街のお店。店先で呼び込まれ、中をのぞいてよさそうだったので店名も見ずに入ったのですが、後から写真を見ると、なんと「龍華楼」という名前だったのです。


もちろんこのときは、テリハボクが龍華樹であることも知りません。店名も見ずに入り、写真は撮ったものの名前を忘れていたので、つい最近、写真を見返してみて驚いたのです。
偶然といえば偶然、でも意味のある偶然=シンクロニシティ。因果関係のないふたつの事象が、類似性と近接性をもつこと。ユングのいう、「非因果的連関の原理」。共時性、同時性。
このお店は広東料理と四川料理のお店ですが、上海には1000年余りの歴史をもつ上海最古の仏教寺院があり、そのお寺が「龍華寺」。龍華寺という名前は、龍華樹という植物の根元に弥勒悔薩を安置したところから付けられたそうです。
弥勒菩薩がその木の下で悟りを開くというタマヌ~テリハボクの木。そういえば、ジョンと海岸を長く歩くとき、ひとやすみするのはいつもテリハボクの木陰でした。

涼しくて、心地よいのです。座ってそよ風に吹かれながら波が寄せるのを見ていると、なんとも心が落ち着いてきます。
灼熱のインドでも、炎天下の路上などに比べたら、大きな木の涼しい木陰は極楽そのものではないでしょうか。お釈迦様が菩提樹の下で深い瞑想に入り真の悟りを得たというのも、弥勒菩薩が五十六億七千万年後に龍華樹(テリハボク)の下で悟りを開かれるというのにも、深くうなずける気がするのです。